自信とプライド

2014年09月26日

さていきなりですが、「自信」と「プライド」とは同じものと思われているのではないでしょうか。
僕も曖昧に考えていたのですが、最近読んだ精神分析学関係の読み物でなるほどと思いました。実はこの二つは全く違うものなんです。
例えばしっかりした自信のある人はあまりプライドにこだわりません。一方自信がない人はプライドを傷つけられることを極端に恐れます。
コフートという精神分析学者の説によれば、「自信」とは「理想自我=現実の今の自分を愛する心」、「プライド」とは「自我理想=こうありたいという理想の自分を愛する心」とにそれぞれ対応します。
あまりごちゃごちゃ難解で理論的なことを書いても退屈なだけでしょうから(実はよくわかっていないだけです)、僕なりの読み解き方に基づいて書きます。

「理想自我=自信」は他者の承認によって得られます。この場合、家族の承認はあまり意味がありません。もう少し社会的な関係における他者(友人とか恋人とか先生とか成績とか)が評価してくれることによって「理想自我=自信」は支えられるわけです。これがないと「自我理想=プライド」は「見栄」や「世間体」と区別のできないものになってしまいます。

具体的に言えば、誰も評価してくれない状態では現実の自分の姿を受け入れられず、その際のプライドは「俺はいつかミュージシャンになる人間なんだ」とか「私は将来一流大学を出て超優良企業のCEOになるような人間なんだ」とかちょっと有り得ない自分と同一化することでプライドを保つようになるといったところでしょうか。
僕は何もミュージシャンや業界の風雲児に憧れを持つなと言っているわけではありません。今の自分を愛せないままの理想像は、決して自分が心から望む自前の理想ではなく、社会的に正の価値を持つだけの、いわば他人が尊敬してくれるような姿、つまり見栄や世間体を語っているに過ぎない虚勢だと言っているのです。

他者の承認によって現在の自分を愛せること、つまり自信に基づく理想像を持つことが健全なプライドにつながるということなのです。

昨日、元塾生で高校二年生の女子生徒が模擬テストの結果を持って現状報告に来てくれました。
彼女は中学生時、高いポテンシャルを感じさせる生徒だったのですが、積極的に自分の希望を表出するようなことはありませんでした。むしろ他者に自分の内面を語ることを警戒する感じ。
ところが、久しぶりに顔をみせた彼女は成績のいい教科も悪い教科も堂々と見せて、実に楽しそうに将来の進路まで語ってくれました。僕が成績の悪い教科をいじってみても、彼女のてらいのない笑顔が途切れることはありませんでした。
後で考えてみればとても大きな変化なのですが、そのときは全く驚きを感じませんでした。きっと当時感じていた内面が違和感なく出ていたからでしょう。
楽しいことばかりではなく苦しいことや落ち込むこともきっとあるのでしょうが、今彼女は現在の自分を愛せています。それによる自信は、きっと正しいプライドを彼女にもたらすことでしょう。

成績の悪い教科を次までに一番できる教科にしてみせるとブチ上げて帰っていった彼女。
そのとおりになるか、ならないか、いずれにせよ次に会う機会が楽しみだったりするわけです。